【記事】エクソン・バルディーズ号原油流出事故の想い出~私とラッコ~ | Personal memories from the 1989 Exxon Valdez oil spill: Rehabilitating sea otters

今回は、2014年3月24日付のAlaska History Societyの記事、"Personal memories from the 1989 Exxon Valdez oil spill: Rehabilitating sea otters"をご紹介します。ボランティアとしてラッコ救出に携わった一人の女性、シェイナ・ラッシュバーさんの手記です。

私にとって、エクソン・バルディーズ号原油流出事故といえばラッコでした。

 

他のアラスカの人々と同じように、1989年3月24日の朝、私はラジオをつけ、その後の数日間、油と油が拡散しているというニュースに恐怖で釘づけになって過ごしました。プリンス・ウィリアム湾で起こっているこの身の毛もよだつほどの状況にたいして、私ができることは何かあるだろうか?ある!そうして、私はヴァルディーズへとボランティアに参加するため向かったのです。わたしはヴァルディーズ・ラッコレスキューセンターで働く旨を申し出、そこではじめてラッコを洗いました。その当時は、このプロジェクトが私の人生を数年にわたって変えてしまうとは思っていませんでした。

 

この事故以前は、ラッコは私にとっては海岸沿いのぷかぷか浮いている茶色い丸っこいモノでしかありませんでした。ラッコについてほとんど知らなかったのです。生物学的には、ラッコは海産物を食べる大きなイタチ科の動物で、群れになって生活しており、道具を使う動物です。歴史的には、その美しい毛皮がロシア人たちを既知の世界の果てまで旅する気にさせてしまったので、地政学的な実体としての「アラスカ」という存在のもとになりました。ラッコにとっては、人間との接触は常に悪い方へ働きました。毛皮貿易により、絶滅寸前まで追い込まれてしまったのです。また、アリューシャン列島における核実験の際、副次的な影響も受けてきました。1989年、ラッコはまたしても歴史の十字線となり、社会の化石燃料への飽くなき渇望の犠牲者となったのです。

 

エクソンに対するデモをする人々 Photo by Doug Loshbaugh .
エクソンに対するデモをする人々 Photo by Doug Loshbaugh .

ラッコに携わるのは、チャールズ・ディケンズの言葉を借りれば、最高の仕事でもあり、最悪の仕事でもありました。良い点は、ラッコの存在そのものの素晴らしさであり、原油流出による汚い莫大な賠償金から支払われる給料であり、理想主義や利他主義、激務、わたしに影響を与えてくれた素晴らしい人々との出会いでした。

悪い面は、家族と離れなければならなかったこと、有毒性の原油、精神をむしばむ皮肉、汚職、無能な人々。そして私が出会った、恐ろしくガッカリする人々。私は、2009年のウナラスカでのアラスカ史学会の年次総会における講演でラッコの翻弄された歴史を概説し、その会議の会報のため、それを書き上げました。

 

25年目を迎え、この‌尋常でない経験と長期間にわたる事故の結果を振り返る時です。これから述べるのは、私の個人的な印象です。

アラスカの人々は、原油流出に対して、また特にラッコに対しては様々な考え方を持っています。幼い子どもたちやよそに住んでいる人たちの多くにとっては、原油流出は漠然としたままです。現場から遠く離れているコミュニティの人々や、海に触れたことがないような人々にとっては、全く無関係でした。沿岸部に住む人々の中には、ラッコは貝などを大量に消費し、その資源をめぐって人と競争している害獣と考える人もいます。しかし、多くのアラスカの人々、特に被害を受けた地域の漁業関係者や自給自足で生活している人々は、この事故を環境的にも社会経済的にも大きな傷だと感じていて、ラッコが受ける苦しみに対しても親近感を持っています。

子どもを抱える母ラッコ。ホーマー近くのリトル・ジャカロフ湾にて。Photo by Doug Loshbaugh.
子どもを抱える母ラッコ。ホーマー近くのリトル・ジャカロフ湾にて。Photo by Doug Loshbaugh.

これらの人々は、ラッコプロジェクトを原油流出に対する対応の一つであり、エクソン社が起こした問題の遺物として見ていました。エクソン社を尊重し信用していたのは、1989年に同社から多くの資金を引き出すことができたごく一部の人だけでした。エクソン社が、地元の人々にとっては傷ついた自然や資源、それを支える生活スタイル全てよりも金のほうが重要だろう、と考えていたことに、酷く疎外感を感じました。それは、エクソン社がアラスカ住民の不満は金が解決するとでも思っていたかのようでした。同様な問題は、不当に利益を得る人々や他人を食い物にする人々、公然と罪を犯す人々にもいえることでした。彼らは罪のない弱い人々を利用し稼ごうと‭事故現場に集まってきたのです。ラッコセンターは、わたしが生まれて初めて「プロの詐欺師」や「ストレスで精神を病んだ人」に出会ったところでした。ささいな盗難がはびこり、一番偉い人に至るまで派閥争いに明け暮れていました。同僚たちは犯罪や不始末について報告しようと力を尽くしましたが、州のニュースで報道された船の契約時の不正以外については、担当者は悪事に対して罰を与えるということに全く関心を持っていませんでした。アメリカの一部の人々は政府は無能だから民間の企業を使った方が資源や経済の上でより望ましいと主張しましたが、そんな意見を持っている人がアラスカで起きた1989年のエクソンの事故やその後の対応についてよく知っているとは思えません。


この事故に関わって働くことは、私とっては管理する役割についたり、他の専門家たちとのネットワークを作る貴重な機会になりました。多様な、しかし情熱的な人々が、長期にわたりストレスの多い時間を一緒に過ごすという状況は、ある種の稀な連帯感のようなものを生みました。このラッコプロジェクトによって、4組が結婚し、1組が離婚に至りました。こうした興奮状態、動機づけ、そして異常さは、楽しみとまではいかなくても、スリリングといえるものでした。

ラッコを洗う人々 1989年、ヴァルディーズにて Photo by Shana Loshbaugh.
ラッコを洗う人々 1989年、ヴァルディーズにて Photo by Shana Loshbaugh.

しかし、別のレベルでラッコセンターでの仕事はトラウマになるものでした。私たちは、力を尽くしたにも関わらず美しいラッコたちが次々と死んでいくのを見ました。後になって、そうした記憶は、人間が引き起こす環境破壊に対する懸念を私の心に引き起こしました。わたしは「リデュース、リユース、リサイクル」(ゴミを減らす、再利用する、リサイクルする、という標語)に憑りつかれたようになりました。同僚の一人は、「ラッコ後ストレス症候群」とでも言うべきものになったと言っていました。別の同僚はラジオで事故から1年の話を聞いて、フリーウェイの路肩に車を止めて泣いた、と言っていました。関わった科学者たちは、エクソン社と繋がりのある者たちによって、そのキャリアをだめにされました。ブライ岩礁に船が座礁してから数年後になっても、私は、ラッコが苦しんで甲高い叫び声を上げているのを聞いて、死にもの狂いでそのラッコを探すという恐ろしい夢をみました。

 

ラッコたちと過ごした時間は、私たちの目を開いてくれるものでした。ラッコがどんなに驚異的な生き物であるか、また私たちの社会とは異なる、複雑な社会の中で生きているということを垣間見させてくれました。その名高い毛皮に触れることも、大きな喜びでした。ラッコの赤ちゃんたちは、考えられる最も可愛い生き物でした。しかし最も素晴らしいと思ったのは、ラッコたちのふるまいでした。一人ぼっちの時は元気がありませんが、群れの中では元気になり、回復していきました。世話しているスタッフたちは、ラッコたちが知性や感情や共感を示すような愛情と他を尊重する気持ちをもってお互いに接しているのを何度も何度も目撃しました。怯えているとき、ラッコたちは互いに手を握りました。餌の時間に、子どもの傍を離れられない母ラッコのために、仲間のラッコが餌を運んであげていました。一番悲しかったのは、健康なラッコが通常の手続きのために獣医に鎮静剤を注射されたあと、溺れて死んでしまったアクシデントでした。他のラッコたちはそのラッコを助けようと、懸命に両脇をそれぞれ抱え、溺れかけたラッコの顔を水の上に出そうとしていました。ラッコは様々な感情を持ちつつ、人に慣れ、親しくなっていました。若いラッコたちが餌をちょうだいといって私の足をぽんぽん叩くのを見て、胸が痛みました。そうして人を信用してしまうと、自然に戻った後に人に撃ち殺されてしまうリスクが高くなるということも分かっていました。また一方で、ラッコたちと触れ合うことは、野生の動物と接触するというまるで幻想が現実になったようなものでした。そうやって見たことをラッコたちを擬人化せず表現することができるでしょうか。

ラッコを自然に返す。このためにエクソン社はラッコとスタッフ用にヘリコプターを用意。1989年、キナイフィヨルドにて。Photo by Shana Loshbaugh.
ラッコを自然に返す。このためにエクソン社はラッコとスタッフ用にヘリコプターを用意。1989年、キナイフィヨルドにて。Photo by Shana Loshbaugh.

ラッコの救助作業に対する努力は、いったい野生動物を助けたでしょうか。答えは複雑です。個体数で言えば、短期的には「ノー」です。1911年の膃肭獣保護条約(おっとせいほごじょうやく)以降回復しつつあり、もはやラッコは絶滅に瀕する動物ではなくなりました。損害評価研究によると、原油により直接3,000頭のラッコが死に至り、そのほとんどはプリンス・ウィリアム湾だったと見積もられました。436頭が「救助」のために捕獲され、そのうち187頭が最終的に帰ったということとは対照的です。人々が助けようと思っていたにも関わらず、捕獲時や輸送時、保護後の生活のストレスでさらに死んでしまったものもいたかもしれません。個々のラッコにとってみれば、特に36頭の子どものラッコたちや障害を負ってしまい、一生保護下で生きなければならなかったラッコたちにとっては、疑うまでもなく、人間による干渉が命を救ったといえます。アメリカ魚類野生動物局は2014年2月に、ラッコの個体数が回復したと公表しただけでした。長期的な視野で見れば、将来的に同様の原油流出事故や他の事故があった際、素早くラッコたちを「保護」下に置くことができるだろうという点で、このプロジェクトは野生動物の助けになったと思います。この最悪の状況下で一つ良かったことは、ラッコの捕獲、治療、管理についてのノウハウが、先例がないほど飛躍したということでした。こうしたノウハウは、アラスカシーライフセンターなどで取り入れられています。

 

人々は、より高度な野生動物への対応を含む原油流出への対応をより大きなスケールで改善することを学びました。アリエスカと他の自治体に、プレハブのユニット式のラッコセンターが保管されています。それらの自治体は、将来的に原油流出事故が発生した際、訓練された対応スタッフを手配する企業と契約をしています。1989年の経験者たちによって書かれた、ラッコのリハビリ方法に関する本もあります。

 

2010年のメキシコ湾原油流出事故のようなより新しい失敗や、海洋の酸性化や気候変動のような迫りくる脅威から得た知識をもって、わたしたちは今年の事故の記念日を振り返っています。ラッコたちは、アラスカの自然のシンボルであり、人間のミスや傲慢さに対する脆弱性のシンボルとして今も存在しています。

元記事:

Alaskan Historical Society

Personal memories from the 1989 Exxon Valdez oil spill: Rehabilitating sea otters

March 26, 2014

by Shana Loshbaugh