【記事】アムチトカ島のラッコたち (2) | Victims of Amchitka Test - 2

 冷戦下、アリューシャン列島のアムチトカ島で行われた3度の地下核実験。
この間、島にいたラッコのうち数百頭がアラスカ州南東部、ワシントン州、オレゴン州、そしてカナダのブリティッシュコロンビア州の各地に移殖されました。今回は、各地への移殖に関する報道記事を集めました。

カナダ ブリティッシュコロンビア州

1969年から1972年の間、アムチトカ島からは29頭、残りはアラスカ州プリンスウィリアム湾から計89頭のラッコがカナダのブリティッシュコロンビア州へ移殖されました。

60年ぶりにラッコが戻る (1969年8月6日:ノースアイランドガゼット紙)

60年ぶりにラッコが再びバンクーバー島の西海岸に住むようになった。ラッコがこのまま生き延びることができるかどうかは、かつてラッコたちが何千頭も暮らしていたこの地域への適応力よりは、主には人間にかかっている。

先週、キュークヮット近くでラッコが30頭リリースされた。ブリティッシュコロンビア州魚類野生生物局により何年もかけて計画され、実施されたのだ。長年それは夢のようなアイデアに過ぎなかったが、アメリカ政府がアリューシャン列島アムチトカ島で原子核爆発実験を行うことを決定したことで実現可能な現実となった。

アラスカ州の遠隔地に住む約50,000頭のラッコにとってアムチトカ島は繁殖地だったが、アラスカ漁業狩猟局はラッコを捕獲し、30頭はワシントン州アバーディーン近くは放流、5頭はタコマ(ワシントン州)の動物園、30頭をブリティッシュコロンビア州での放流を行うことを許可した。

アメリカ原子力委員会はまず全てのラッコを和真言宗のホキアムへ空輸した。国際規約によりその輸送機はカナダ国内へ着陸することができないため、カナダ軍ダコタ部隊がラッコを引き取り、ポートハーディへの輸送を行った。ラッコは乾燥していると長く生きられないため、メッキされた水槽に水を入れ天井に網を付けた個別のケージで輸送された。

しばらくの間、作業が全て頓挫したように思われた。本来は7月25日に行われるはずであったが、天候不順と技術的な問題が持ち上がり、アラスカ州から飛行機が離陸できなかった。キャンベルリバーから保護職員が2名その作戦に参加したが、3日後帰ってくるようにとの電話を受けたため、その計画は中止されてしまった。

予想外ではあったが、7月30日の朝ポートハーディーの空港へヘリコプターが到着した。そしてラッコの輸送が実際行われていたことが発覚した。

輸送が遅れたにも関わらず、またラッコは厳しい条件の海での生活に適応しているが取扱いがしやすかったため、1頭を除く放流予定のラッコ全てが非常にいい健康状態で、その1頭すら生き延びることができそうにも見えた。

ラッコにとって、敵となる動物は主に人間だ。他の海洋哺乳類とは異なり、ラッコには体を守る脂肪層がなく寒冷な太平洋の海で身体を温かく維持するために豊かな体毛に頼っている。水の中の油のようなものによって体毛の保温品質はすぐにだめになってしまい、ラッコは死に至る。

ラッコが人間により害を受けやすい。これも放流には漁師がほとんど来ることのない離れたエリアを選ぶ理由の一つだ。また、ラッコが餌にすることが分かっている15種類の動物のうち、放流地には9種類が生息していることも理由の一つだ。

海岸へ白人がやって来るとオットセイやオヒョウ(カレイの一種)や他の多くの種と同様に、ラッコの数も激減した。1788年にフレンドリー・コーブへ到達したジェームス・クック船長は先住民であるヌートカ族にラッコの厚く光沢のある毛皮を見せられ、イギリスへ帰ってからそのことを書いた。それから間もなくカリフォルニアからアラスカにかけての沿岸全域で、本格的にラッコ狩りが行われた。
アジアのポルトガルの植民地からの貿易商、そしてのちにはアメリカ東海岸の州から来たアメリカ人たちがとりかかった。1799年と1802年の間、中国1国だけでも48,500枚の毛皮が運ばれ、その後10年間におよそ20万枚のラッコの毛皮が世界のマーケットへ流れた。

同時に、ロシア人がアラスカを襲った。その結果、1900年には沿岸全域で獲れた毛皮はたった127枚になってしまった。

それまでなされてきたことが、ようやく現実として認識され、1911年、ラッコ狩りを行ていた国々は国際保護条約を締結した。しかしそれまでにラッコはアラスカの離れた島々を除いて全滅してしまっていた。

カリフォルニアの沿岸ではなんとかわずかな群れが生き残った。その群れは1933年に発見され、今は500頭ほどになっているアラスカのラッコはおよそ50,000頭とされているが、それの数に限られているのははラッコが利用できる場所がすでにいっぱいだからだった。

野生生物の専門家は、復活を遂げているのはラッコに対するしっかりとした保護政策があり、またラッコが住む岩礁やケルプ棚は人間にほとんど利用されてないためだと述べている。ケルプ棚はウニやムラサキガイ、アワビや二枚貝のようなラッコのエサを供給する。ラッコは魚は食べないため、漁師にとって脅威とはならない。


ブリティッシュコロンビアの個体群は注意深く観察されることになり、一般人が訪れることが推奨されていない。魚や野生生物や漁業の関係者がラッコを観察し、ラッコが新しい環境に落ち着けるように配慮するためだ。

ブリティッシュコロンビア州の野生生物連盟は更なる保護政策のため、ここに海洋公園を設立することを推奨している。今回の放流に関わったナナイモ市の2名、保護職員のデニス・ワイルダーと野生生物技術者のバッド・スミスは数日間この場所に滞在しできるだけ観察する予定だ。

ほとんどのラッコはケージから出されるとすぐに水のほうへ向かった。しかし1頭はなかなか水に入らず、岩にしがみついていた。そのラッコたちの中では唯一、まだ小さい子どものラッコだった。

そのラッコの母親が甲高い声で呼んだが、子どもは動こうとしなかった。結局、母親ラッコは待ちきれずにその子どものラッコの耳を掴んで水の中へ引きいれた。それで十分だった。子どものラッコは、泳いでいく母親の後を追いかけていった。

観察者によるとほとんどのラッコは水に入るや否や仰向けになり、お祝いで拍手しているようだった。

このラッコの群れの成長は緩やかだろう。条件が最良であっても、メスのラッコは2年に一度しか子どもを産まない。しかし、そのままにしておけばきっとうまくやってくれるはずだ。

North Island Gazette, Aug 6 1969
Sea Otter Return After 60 Years

アメリカ ワシントン州

1969年と1970年、アムチトカ島からワシントン州へ59頭のラッコが移殖されました。

ラッコがラプッシュへ無事到着
(1970年7月22日:エレンスバーグデイリーレコード紙)

オリンピア: 追加の31頭のラッコがアラスカから沿岸の町ラプッシュへ無事到着したとワシントン州狩猟局が本日発表した。

このラッコの移殖はアラスカ州アリューシャン列島のアムチトカ島からクイレユート航空基地まで直接空輸で行われた。その後ラッコたちは近くのラプッシュまでトラックで運ばれ、船で少しの時間運ばれてクイレユート川の河口にある海に浮かぶ保持用の囲いへ輸送された。

狩猟局はこの輸送におけるラッコの体調に関して非常に熱心だった。死んだのは1頭、若いオスのラッコだけだった。

生き残った8頭のオスと22頭のメスは健康状態も非常に良く、この一時的な棲家に適応している。囲いに放して数時間後、ラッコたちは狩猟局が用意したメバルの身やイカを食べていた。

ラッコたちは捕獲やその後のアラスカからの長時間のフライトから完全に回復するまではその囲いに入れておかれる。狩猟局の野生生物担当や生物学者たちは囲いを24時間体制で監視しており、最終的に自然に帰すときまで続けられる。

ラッコたちはアムチトカ島で数が余剰になっているものを捕獲した。ワシントン州への移殖については全て原子力委員会が負担する。さらに30頭、ポートオーフォードでのリリースのため、オレゴン州へ空輸されている。

水に浮かぶ囲いは沿岸警備隊によりラプッシュの北2マイル、モーラへリリースのために牽引されていった。ラッコたちはここで活発な繁殖地の中心を形成することが望まれている。


昨年の夏初めてラッコを移殖が試みられた時よりは、今回の移殖で予期される問題は少なかった。リリース前に囲いで一時的に保護するという途中段階をつくることで、ラッコが新しい環境に適応するチャンスを増やすことができた。

最近はラッコの毛皮が商業的なマーケットで販売される数は限られているが、狩猟局の担当は特別で興味深い野生生物を再定着させるという目的で再導入したものであり、ワシントン州のラッコにより毛皮産業を振興する意図はないと強調している。
Ellensburg Daily Record, July 22 1970
Sea Otters arrive safely at LaPush

アメリカ オレゴン州

オレゴンへの移殖計画

かつて、オレゴン州沿岸には多くのラッコが戯れていた。19世紀末以降、オレゴンからは絶滅してしまった。1970年と71年、オレゴン州狩猟局(訳者注:現在の野生生物局)は、アラスカ州漁業狩猟局及び原子力委員会の協力の下、アラスカ州アムチトカ島からラッコの移殖を行った。
1970年の移殖の準備期間中、86頭が捕獲されたが、うち24頭が最初の4日間で死んでしまった。網にかかって死んでしまったり、多くは保持用の水槽で死んでしまった。1971年に移殖用に捕獲された79頭のうち、15頭は網もしくは保持用の水槽で死んだ。何頭かは健康に問題があり、弱って死んでしまった。
1970年7月18日、31頭のラッコが飛行機による輸送でオレゴン州南部沿岸のポートオーフォードに到着した。ラッコはそれぞれ天井に網がついた水槽に入れて運ばれた。8時間のフライトの後でも、みな元気そうだった。ケージの水は定期的に入れ替えられ、居心地を和らげるのに役立っているようだった。
ラッコたちは大きな水上の囲いに移された。そこでは泳ぐことも、水から上がることもできた。性別の内訳はメスが21頭、オスが10頭だったが、最初の12時間でそれぞれ1頭ずつが死んだ。この囲いは、ラッコたちを1か所に集め、グルーミングの際守れるように設計してあった。水に入らなかったため体毛を手入れできず2頭が死んだ。ほとんどのラッコは多くの時間を水の中で過ごしていたが、少しの間水から上がるものもいた。
ラッコたちには1日3度餌が与えられた。イカと魚のフィレが与えられたが、魚のほうをより好むようで、餌を溜め込む行動を見せた。持てるだけの魚を抱え、一つの魚を食べては、自分の蓄え分には手をつけず水から他の魚を取っていた。
到着から2日後、ラッコの状態は良さそうだった。ラッコたちは4マイルほど離れた放流予定地ハンバッグ・マウンテンへ囲いごと移動した。海は荒れており、リリース後、1頭のラッコは港の船着場で船をたたいていた。その晩まで、3頭のラッコがもともと囲いが設置されていた場所近くのポート・オーフォードへ戻ってきた。

リリースから1週間後、50マイル北のクーズベイでメスのラッコが餌を食べていた。そのメスはそこで6か月過ごした。リリースから2か月後に行われた個体数調査では、ハンブルクマウンテンからクーズベイの間で14頭のラッコがいることが判明した。4月、アシカの航空機による個体数調査で3頭のラッコが確認された。少なくとも、3頭のラッコが冬を越すことができたのだ。

2度めの移殖は1971年6月24日に行われ、64頭のラッコがアムチトカ島から連れて来られた。クーズベイのすぐ南にあるシンプソンズリーフで41頭が、ポートオーフォードで23頭がリリースされた。非常に悪天候だったため、ラッコたちを保持用の囲いに入れることができず、直接海にリリースされた。ポートオーフォードでは、突然の揺れにより、ラッコの入ったケージが3つ海中に放り出されてしまった。幸運なことに、2つは開いたが1つはそのまま行方不明になってしまった。翌日、天候が穏やかになった。ケルプ棚がありウニが非常に多いシンプソンズリーフ近くで11頭が確認された。

移殖から1か月後、空からは11頭を確認することができた。現在まで、シンプソンズリーフのエリアに5頭が住んでいる。今年2頭が明らかに自然な原因で死に、1頭が銃で撃たれた。

道具を使っているところは目撃されていないが、2つのエサをぶつけているところは観察されている。ラッコたちはここでムラサキガイやターバンスネイル(巻貝の1種)、カニや2種類のウニを食べているようだ。


The Otter Raft No.6
Friends of the Sea Otter, Dec 1971
written by Bruce Mate, Oregon Institute of Marine Biology