【記事】海産資源をめぐる先住民とラッコのたたかい | Seafood Fight

本日は、2016年2月18日付のSAPIENSより、"Seafood Fight "をお届けします。
カナダのブリティッシュコロンビアにおける、先住民とラッコの関わりと軋轢についての記事です。
ラッコの保護活動は地元の伝統や経済的な影響を無視できるものではありません。

ブリティッシュコロンビア沿岸の先住民たちは、ラッコと深い歴史的な繋がりがある。しかし、今日、双方は平和に共存できるのだろうか。

18世紀と19世紀の毛皮貿易がブリティッシュコロンビアからラッコを一掃してしまった。今日のラッコの回復の成功によりラッコの繁殖地における海産物が減少し、保護活動家と漁業関係者の間で議論を引き起こしている。Gregory Slobirdr Smith/Creative Commons
18世紀と19世紀の毛皮貿易がブリティッシュコロンビアからラッコを一掃してしまった。今日のラッコの回復の成功によりラッコの繁殖地における海産物が減少し、保護活動家と漁業関係者の間で議論を引き起こしている。Gregory Slobirdr Smith/Creative Commons

バンクーバー島の自然が豊富な西海岸、カユーケットの小さな村はブリティッシュ・コロンビア州の入り組んだ海岸線に囲まれている。ここは数百人の人が住む荒野の楽園で、先住民が何千年もの間、この付近や似たような入り江で暮らしてきた。ラッコも同じだ。しかし千年も共存してきたにも関わらず、先住民とラッコは今、論争に巻き込まれている。そして、毛皮貿易時代に一掃された可愛らしいラッコが大幅に回復したという、一見心温まる生態系のサクセスストーリーのように思えるものが、その不満の源なのだ。

 

「ラッコに関しては否定的な考えが多くあります」カユーケットの先住民で漁業に従事し、ラッコの大幅な回復を経験しているダニー・ショートは言う。「撃ち殺してしまえ、撃ち殺してしまえ、と言う人もいます。しかし、創造主がラッコをここにおつくりになった。私はむしろ、ラッコがこの辺りにいるのを見ていたいんです」

 

18世紀と19世紀の毛皮貿易は狩猟ブームに拍車をかけ、ラッコを地図から消し去り、世界のラッコの個体数を数十万から数千へと激減させた。ブリティッシュコロンビア沿岸だけでも数万枚のラッコの毛皮が採取され、知られているうちで最後のラッコは1929年に撃ち殺された。新しい個体群を作るため、保護活動家らは1969年と1972年にアラスカからカユーケットへ89頭のラッコの移殖を試みた。そのスキームは成功した。今日、ブリティッシュコロンビア州には少なくとも5,500頭のラッコがいるが、これまでのところラッコはかつての生息域のおよそ3分の1を再支配したにすぎない(ほとんどは2つのホットスポット、カユーケットと。ハイダグワイの島々からバンクーバー島にかけての中央ブリティッシュコロンビア沿岸の半分に生息している)。2009年にラッコは公的なカナダの絶滅危惧種法において「絶滅危惧」から緩和された「特に懸念される」へとダウングレードされた。

 

しかし、ラッコにとっての良いニュースは、ウニやハマグリ、アワビ、その他の動物にとっては悪いニュースだ。スリムで脂肪層のない体格と高い代謝を持つラッコは、北太平洋の極寒の海で体温を維持するために驚異的な量を食べる必要がある。それは、毎日100パウンド(約45kg)という体重の約4分の1から3分の1の量にのぼる。「ラッコを見かけることがあれば、たいていは食べているところでしょうね」バンクーバーのサイモン・フレーザー大学の海洋生物学者、アン・サロモンは言う。乱獲やラッコの急増により、アワビは「絶滅危惧種」のリストに制定された。様々な魚介類がを消費したり販売するために採取していた沿岸のコミュニティは、そうしたものがなくなってしまい非常に困っている。「子どもたちは貝を掘りに出かけていました」とショートは言う。「それは本当に家族のためのものでした。でも、もうそれもできないのです」

 

カユーケットを含む沿岸の先住民14部族を代表するヌーチャヌルス(ヌートカ)族部族評議会のプログラム・マネージャーであるドン・ホールは、1990年代初めにカニ漁をめぐって商業漁業関係者と大きな争いがあったことを覚えている。「5年たって商業カニ漁などはなくなりました」とホールは言う。「ラッコがやってきてカニを見事に一掃してしまったからです」

こうしたことが全て、ラッコの回復を祝うべきか、ラッコを獲るべきか、あるいはその両方か、という熱い議論につながっている。多くの保護活動家らがラッコの個体数が増えていることに興奮する一方、生計のために魚介類に依存している多くの人はそうではない。「人々はいつも保護活動に対して満足するわけではありません。それが日常生活に対して負荷になってしまうからです」とイアン・マケシュニーは言う。マケシュニーはブリティッシュコロンビア州ビクトリア大学の人類学者で、その研究は毛皮貿易以前のラッコの個体数を評価する上で役立っている。マケシュニーやサロモンや他の研究は、ラッコと魚介類と人間のもつれた繋がりをほどき、長期的に持続可能な関係とはどのようなものかを判断するための手助けとなっている。

 

しかし、それは順風満帆ではない。2014年6月、サロモンはこうした問題を話し合うため、科学者と先住民の首長らによるユニークな会議を先導した。「それは本当に危険を伴うものでした。私は、科学界から最重鎮の方々、先住民政府や政治界からも最重要人物の方々を招きました」とサロモンは言う。「議論は完全に難破する可能性がありました」

ラッコは日本北部からメキシコのカリフォルニア半島バハ・カリフォルニア中央部にかけての太平洋沿岸に見られる。沿岸各地に散在する様々な部族にとって、ラッコと人間の歴史は深く絡み合っている。例えばアラスカ南部の沿岸に住むアルティーク族の人々にとって、ラッコと人間は同じものだ。彼らの伝説では、最初のラッコはかつて人間であり、満ち潮に捕らわれた際に助かるために自ら姿をラッコに変えたのだ。

 

考古学的な証拠からブリティッシュコロンビア州の西海岸には人類が1万年以上住んでおり、その歴史においてラッコ猟は非常に重要であったことが示されている。ヨーロッパ人が到着する以前、先住民たちはラッコの毛皮を儀式用のローブや寝具、断熱のために珍重していた。脂肪層がないためラッコは大量のエサを必要とし、豪華な厚くて暖かい毛皮が必要だった。

 

そうした歴史的な証拠は、地元の先住民らはヌーチャヌルス(ヌートカ)族の "Hishuk Ish Tsa’walk"つまり、「全ては一つであり、すべてはお互いに繋がっている」という原則のもと、ラッコの数が管理されていたことを示唆している。ヌーチャヌルスの口承歴史では、特定の人々が特定の時期だけラッコ猟をすることが許されていたとある。また、オスのラッコは典型的にその生息域を広げるため、猟をする者は特にそうした冒険的なオスのラッコをターゲットにしていたようだ。ラッコの遺物は貝塚ー貝殻や他の家庭からでるごみが堆積したものーの中で発見されるが、それは長年ラッコ猟が行われていたことを示唆しており、またラッコの個体数が急増したり爆発的に増えることなく、比較的安定していたことを示している。

1788年、イギリス人がバンクーバー島のヌートカ湾へ移住目的で再来した。ヨーロッパ人と先住民の接触は、激しい毛皮貿易の時代にあり、重大な生態系の変化の引き金になった。Wikimedia Commons
1788年、イギリス人がバンクーバー島のヌートカ湾へ移住目的で再来した。ヨーロッパ人と先住民の接触は、激しい毛皮貿易の時代にあり、重大な生態系の変化の引き金になった。Wikimedia Commons

毛皮貿易がすべてを変えてしまった。これが「前例のない生態系の変化」をもたらしたとサロモンは言う。ラッコは健全で繁栄したケルプの森の生態系の重要な一部分である。ラッコがこの生態系から取り除かれてしまうと、ウニが爆発的に増え、ケルプの「原生林」を食べ尽くし、魚が産卵したりエサを食べたり捕食者から身を隠したりする安全な避難場所を取り去ってしまった。

 

貝塚からラッコの骨を掘り出して同位体含有量を調べ、ラッコが何を食べていたかを突き止めることもマクシュニーの研究の一部だ。5,200年前から1,900年前までに及ぶ10か所の研究から、ブリティッシュコロンビア州北部のラッコは貝類を良く食べる食生活を送っており、ここからも地元の人々がラッコの数をコントロールしていたということがほのめかされている。ラッコが無制限に繁殖していた地域では、ラッコはウニを食べケルプの森が繁茂していた。研究者らは、ラッコがいる地域のケルプの森は、いない地域の20倍大きいことを見出した。そして、ケルプの森が繁栄すれば、魚は大きくなる。その魚もラッコが好むエサの一部となる。

 

このような考古学的研究は容易ではない。貝塚は素晴らしい歴史ののぞき穴を与えてくれる。人目につかない草や低木の下に隠れたゴミ捨て場は時には数メートルの深さにあり、幅は数キロメートルに及ぶ。石器や貝や骨を含み、それらが古代の食事や生活習慣を明らかにしてくれる。しかしこうした貝塚なただのゴミの山ではない。祖先の骨は古代の食べ物の骨と混ざっている場合もある。そして入植者らが先住民の伝統的な土地で好き放題やってきたという長い歴史をかんがみると、多くのコミュニティが研究者らが人間の遺物を取り扱うことに警戒している。「私たちは、多くの人々が神聖なものだと思うものを取り扱っています」とマクシュニーは言う。「先住民の中には、自分たちの歴史を他の人々にめちゃくちゃにされたくないと思っている人もいるのです」

 

マクシュニーは、自分と同僚たちがこうした敏感な問題について、様々な部族と協働できることに満足しているという。研究が遅々としているのは、その分野の研究者の数が少なく、研究資金も少ないからだ。彼らはともに潜在的な研究のため広大な地域で遺物を収集している。ブリティッシュコロンビアには知られているだけで何千も貝塚が存在するが、そのうち発掘が行われたのは1%にも達していない。

 

先住民らは何千年もラッコとバランスのとれた暮らしをきてきたようだったが、その多くは今は遠い記憶になってしまった。「私たちの70歳、80歳になる長老たちも、ラッコとともに育ってはいません」とカユーケットの先住民の漁業従事者であるショートは言う。「その長老たちの祖父母たちはそうでした。しかし、その後、ラッコは西海岸における通貨になってしまったのです」最近の世代は魚介類を食べることに慣れ、ラッコは自分たちの食べ物を盗むものとして憤りを感じている。「ヌーチャヌルス(ヌートカ)族の人々に、200年前はウニなど食べなかったじゃないかと言っても、みんな『そんなことは気にしない。今ウニを食べるのが好きなんだから』と言うでしょう」とホールは付け加えた。

 

ホールやショートの場合、トリックは、彼らがカワウソが戻ってくるようにすることによって得るために何かを持っている地元の人々を説得することです。

ホールやショートにとって、秘訣は、ラッコが戻ってくることによって何らかの利益がもたらされるとを地元の人を説得することだ。ホールは言う。「私たちはこう人々に伝えるようにしているのです。『ほら、ラッコは生態系の一部なのだから、長い目でみたらあなたたちにもより利益があるのです。健全な生態系から得られる食べ物は他にもあります。魚や、貝類などもそうです』」ショートはその関係がカユーケットで実を結んでいるのを見たという。「ラッコは生態系を取り戻してきています」

 

サロモンはその復活の詳細を突き止めるのに貢献している。2010年以来、サロモンは、ラッコの回復が進んでいる2つ目の場所であるブリティッシュコロンビア州沿岸中央部のヘイルツク族と協働し、10年から30年ラッコが生息している場所と、数年前からラッコがいる場所や全くいない場所との比較を行っている。これらの研究により、ラッコが来て3年後にはケルプも戻って来るが、ケルプの原生林が確立されるまではおよそ20年の歳月がかかることが分かった。「20年といっても、陸上の原生林と比較すれば非常に短い時間です。だから、そうした恵みに感謝する必要があります」とサロモンは言う。

 

ケルプは成長する際、水への光の量を調節し、アザラシに多くのエサを、ニシンに産卵場を、メバルに保護する場を与える。ケルプが多いことが全てのものにとってより良い結果を産むというわけではないが、サロモンの未発表の研究では、その地域でとれる美味しく漁もしやすいメバルという魚の数が急増したことが示されている。他の地域での研究も似たような傾向を示している。カリフォルニア大学サンタクルーズ校の生物学者でありラッコに関する世界有数の専門家であるジム・エステスは、2005年アラスカで健全なラッコの個体群が生息するケルプの森には、ウニがケルプを食べ尽くしてしまったところの10倍のアイナメが生息することを発見した。こうした水域に食糧を依存している人々にとっては、魚が増えることが、楽に獲れる貝類を失う痛みを相殺する役に立つはずだ。

 

数字以上に、研究者らは映像や話を通じて健全な生態系の復活が地元のコミュニティにどのように恩恵をもたらすかというメッセージを伝えている。マケシュニーは数年前、研究の記録映像を撮影している同僚と共にカユーケットを訪ねたことを思い出す。「彼がGoProをつけて海に潜り、ある人のリビングルームの大きなテレビに活気ある海の生物とケルプ床を見せることができました」とマケシュニーは言う。「誰かが自分の裏庭の生命がどんなに素晴らしいかを初めて目の当たりにしている様子のを見るのは、本当に力強いことです」サロモンの研究はフィラデルフィアに本拠地を置くピュー・チャリタブル・トラストという非営利団体から資金を受けており、先住民の巡回美術展やマルチメディア、インタラクティブな写真ジャーナルを通じてその結果を広めるのに役立っている。

 

しかし、そのニュースがどんなに鋭く敏感に広まっていっても、数十年に渡って生態系が変化することに地元民は不安になる。「それは、長い間ここになかった動物や魚を、長い時間かけて取り戻すことなのです」とホールは言う。「問題は、その痛みの期間を短くできるかどうかなのです」

 

サロモンは生態系の回復をスピードアップすることはありえないというが、地元の人々が変化を容易にするためのラッコの管理を学ぶことはできる。例えばサロモンが以前研究を行っていたアラスカでは、地元の人々が黒ヒザラガイや巻貝やタコを獲っている沿岸では、ボートに乗ってラッコを怖がらせ手逃げるようにしていた。「昔は犬を使っていたかもしれません」とサロモンは言う。ラッコを管理する別のアプローチは、規制を設けたうえでのラッコ猟も含むだろう。

 

ラッコ猟は厄介な問題だ。生活を海に依存していない部外者は、このようなカリスマ性のある動物を殺すことに反発している。しかし、これは狩りもしくは間引きともいえるが、これは食卓から貝類がなくなるのを目の当たりする地元の人々にとっては納得いくものだ。「彼らにとっては、自分の家の前庭で数年一緒に暮らしてみれば、ラッコがそれほど可愛くなくなってしまうのです」とマケシュニーは言う。更に、管理されたラッコ猟により、先住民の人々が古い習慣を尊重して「首長にラッコの毛皮を着せる」ことができるのだとホールは指摘する。

 

科学者の中には、生態系は人の影響を与えず自然のままあるべきだ、という考えを持つ人もいる、とサロモンは言う。しかし、現在、人間は部外者ではなく生態系の一部として考慮されるべきだということにほとんどの研究者が同意している、とサロモンは付け加える。「自然と人間のニーズのバランスを考慮しなければならないということに、ほとんどの人は気が付いていると思います」科学者や先住民の代表による2014年の会議で「それには両方の側が非常に明確に同意していました」とサロモンは言う。

1915年、ヌーチャヌルス(ヌートカ)族のハンターがラッコを射止める準備をしている。ラッコ猟はヌートカ族にとって長い伝統であり、健全な個体数を維持するうえで役立っていたと思われる。Edward Curtis/DMNS
1915年、ヌーチャヌルス(ヌートカ)族のハンターがラッコを射止める準備をしている。ラッコ猟はヌートカ族にとって長い伝統であり、健全な個体数を維持するうえで役立っていたと思われる。Edward Curtis/DMNS

2012年、ヌーチャヌルス(ヌートカ)族は収穫数の提案を含む儀式の目的のためのラッコ猟の管理計画の草案を書いたとホールは言う。(2007年、カナダの水産海洋省は、狩猟及び事故によるラッコの許容できる死亡数は年間143頭であることを提案した)しかし、ヌーチャヌルス(ヌートカ)族評議会はまだ実際に狩猟許可を申請していない。「今は他に優先することがあるので、ラッコについては確定していないのです」とホールは言う。ヌーチャヌルス(ヌートカ)族は、カナダ政府に対し、ニシンが枯渇しておりヌーチャヌルス(ヌートカ)族が伝統的な漁業権を持つ海域で商業ニシン漁を再開するのを阻止するための法廷闘争に巻き込まれているのだ。また、「許可を申請すること自体力を失ってきています」とサロモンは付け加えた。先住民の多くはカナダ連邦政府の権限や、なぜ政府が彼らの生態系管理や伝統的な慣行に対し発言権を持つのか認識していないのだ。

 

その間、ブリティッシュコロンビアで淘汰されているラッコもいる。ショートは数年前11頭という限られた数のラッコ猟があったことを知っている。銃で撃たれたラッコの死体を見た研究者もいる。このように間引くことはカナダの法律上違法になるが、サロモンはそれは先住民の慣行に従うものであると言う。

 

サロモンは、昨年の初夏、ラッコのホットスポットであるブリティッシュコロンビア中央部にある小さな町ベラベラで、若い先住民の男性が目上の首長が撃ったラッコの死体を扱うのを手伝ったという。「この若い男性は本当に怒っていました」とサロモンは言う。「村には何が道徳的に正しいことで、何が生態学的に正しいのかということについて論争があります。年長者は家族のために漁をしますが、若者はおそらく、ほとんどの食糧をスーパーで手にいれているでしょう」

 

こうした世代間のニーズや態度の差があることで、若い次の世代のリーダーになる人たちが管理されたラッコの個体群とケルプの森と魚と引き換えに、魚介類を失うことを受け入れやすくなる可能性があるのは良いニュースだ。大昔どのような状態だったのかというデータや情報があれば、影響を受けるコミュニティは情報に基づいて今後ラッコとともに生きていくための意志決定をすることができる。「その変化が非常に痛みを伴うものなのです」とサロモンは言う。「情報を共有することで、変化の可能性を高めることができると思います」

SAPIENS
Seafood Fight
NICOLA JONES / 18 FEB 2016