【記事】シェッド水族館とラッコ (1) | Rescue and Rehab

本日は、古い記事なのですが2012年9月28日付のシェッド水族館のブログから、"Sea Otter Awareness Week: Rescue and Rehab"をお届けします。
シェッド水族館が始めてラッコを受け入れることになった時の話です。

1988年には誰も計画していなかった。シェッド水族館がラッコの子どものリハビリを行い、育て、元気なイタチの仲間のトレーニングにおいて、リーダー的な存在になるとは。当時、内陸の動物園や水族館には、ラッコの飼育すら行われていなかった。

 

しかし、シェッド水族館は北西太平洋の岩礁沿岸を再現した展示水槽を作っており、ラッコがいなければそうした展示は正式なものにはなりえなかった。

 

当初の計画では、1990年の春、オセアナリウムのオープニングの直前ににアラスカの水域から6頭のラッコを手に入れることになっており、ラッコに関する権限を持つ米国魚類野生生物庁に対し許可を申請していた。

1989年3月24日、1100万ガロンを超える原油を運んでいたエクソン・バルディーズ号がプリンス・ウィリアム湾で座礁し、タンクが破裂してしまった。当時のことを知っていれば、海鳥やラッコなどの生物が有害で息を詰まらせ、命を奪う黒いかたまりにおおわれていたのを覚えているだろう。ケン・ラミレスとジム・ロビネットもそうだった。

 


現在動物ケア・トレーニング部門の副部長であるケンと、対外規制業務部門の上席副部長のジムは当時、シェッド水族館から派遣されアラスカ州バルディーズでラッコの保護とリハビリの援助活動を行った。当時、ジムは新しい海洋哺乳類部門のキュレーター、ケンはアシスタントキュレーターだった。

13日間の滞在うち最初の4日間、彼らは原油流出の影響をモニターするため、ラッコの個体群の調査を行う研究者らを手伝った。ある時はまだ油が漏れだしているエクソン・バルディーズ号の真上を飛んだ。それから二人はラッコレスキューセンターへ出向き、24時間体制で保護とリハビリを行う他の動物園や水族館の専門家や様々な百名以上のボランティアらと、知識を学んだ。


仮設レスキューセンターはその町の高校の体育館及び3つのトレーラー、周辺の駐車場に設営された。それは動物病院と新興都市、美容院が組み合わさったようなものだった。

「至るところにヘアドライヤーがありました」とケンは言う。リハビリを行う人々のチームはヘアドライヤーとバスタオル、何ケースもの食器用洗剤(現在そのブランドは原油流出の際動物を救出するのに使われていることを誇りにしている)を装備し、新たに到着するラッコの洗浄を行っていた。外には回復中のラッコを入れた突貫で作られたが頑丈なケージが何列も並んでいた。大きなドライヤーがラッコを温めるのにずっと使われていた。ケンとジムがいた間、約50頭のラッコがそこでケアを受けていた。


当時、一時は600名もの人々が8時間のシフトを生めていた。獣医のほか、獣看護師、水族館や動物園の専門家、秘書や清掃係や果てしなく魚やイカやエビを用意するキッチン係、警備員や水槽を作ったり修理したりする大工のような人々がいた。

 

こうしたオペレーションはエクソン社が費用を出し、サンディエゴのシーワールドリサーチ研究所のラッコ専門家によって運営された。

 

残りの滞在期間、ケンとジムはセンターの野外チームが連れてきたラッコの洗浄や洗浄後のラッコの世話に従事した。ジムが見たところでは、取り扱ったラッコはわずかに油に汚染されているだけで、生きられる可能性が高そうだったが、原油流出の直後に連れて来られた汚染のひどいラッコは死んでしまった。


初日、5頭のラッコが連れて来られた。獣医が初期検査をしたのち、ラッコはそれぞれラッコと扱う人の安全のため鎮静剤を打たれた。6人1組のチームで2時間にわたる洗浄を行う。「中性洗剤が毛皮全体をきれいにすると洗浄完了になります」とケンは1989年のインタビューで答えている。「そのプロセスの間、獣医が待機しており。定期的にラッコの体温を測ります。毛皮を洗った後、ラッコが低体温症になるのではないかと心配だったからです」ラッコは、体温を保ち体を濡らさないようにするため、動物の中でも最も密度の高い毛皮に依存している。ガードヘアを通り越して下毛から肌に水がしみ込んでしまうと、ラッコの体温は致命的なレベルまで下がってしまう。

20~65パウンドの成獣を泡立てるのに40分かかる。油が取れたことを確認すると、温水を使い再度体温をモニターしながらすすぎが行われる。その後、抗生物質を含んだ水分補給をチューブで与えられ、右後ろ脚にタグを付けタオルで乾かされる。最後に一人がラッコの頭を支え、他の二人がドライヤーで毛を乾かす。

 

こうした段取り全体は洗剤のブランド名やすすぎの回数まで、カリフォルニアの僅かな個体群を脅かす可能性のある原油流出に備えて、事故の数年前にシーワールドの研究者らが作り上げたものだった。

 


ラッコが自分でグルーミングをよく行い、力強く泳ぐことができれば、バルディーズ港に設置された囲いの中に移された。そこではラッコはずっと水の中にいられるが、モニターされていた。そこから、守られた自然の海水環境のある地元の孵化養殖場へ運ばれた。孵化養殖場は油で汚染されていない場所へリリースされる前の最後の段階だった。

ラッコの子どもについては、より困難があった。親を失ったものもいれば、ストレスを受けた母親に拒絶されてしまった子どももいた。どの子どもも野生で生き延びていくためのスキルを持っていなかった。「こうした困難は、つまり、私たちが当座のリハビリのために母親を見つけなければならないということでした」と10年目のラッコ啓蒙週間を迎えるにあたり、ケンは思い出していた。


ラッコの子どもは、24時間人の手で育てなければならない。最も幼いラッコは毎日体重の30%の量を与えるため、2時間ごとにチューブで調合ミルクを与えた。大きくなると哺乳瓶で与えるようになり、その後固形のエサに移っていった。給餌は4時間ごとに行われた。

 

ラッコの子どもはまた、浮き方も学ばなければならなかった。一度に10分を超えない時間もしくは毛を浸す程度浅い水槽に入れられた。それからタオルとヘアドライヤーでグルーミングを行った。子どもには、母親と同じように常にグルーミングしてあげなければならない。またラッコは社会的な動物であるため、遊ぶ時間も非常に注意を必要とした。

 

原油流出事故のため、シェッド水族館が成獣のラッコを捕獲するための許可は下りなかった。その代わり、ケンとジムがアラスカにいた時に、ラッコの子どもを何頭シェッド水族館に連れ帰りたいかと訪ねられた。米国魚類野生生物庁は集中ケアを終えた赤ちゃんラッコたちを受け入れる資格のある場所を探さなければならなかった。スワードに開設されていた2番目のラッコレスキューセンターの4頭の赤ちゃんラッコたちがシェッド水族館へくることになった。新たに採用した海洋哺乳類トレーナーがラッコの世話をするためアラスカに向かった。1989年の夏、エクソンがラッコレスキューセンターを閉鎖すると、赤ちゃんラッコたちと飼育員はワシントン州タコマのポイントデファイアンス動物園水族館に場所を与えられた。その間、オセアナリウムの完成はまだ1年以上先だったが、シェッド水族館は海水ギャラリーにラッコたちのための水槽を設営した。1989年のハロウィーンの夜、4頭のフワフワの子どもたちが仮の水槽に飛び込み、シェッドの新たな時代を先導することとなった。

 

しかし、これにはまた別の物語があった。(続く

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Sea Otter Awareness Week: Rescue and Rehab

SEPTEMBER 28, 2012