【記事】誰もラッコを撃ちたくなどない(3) | Why would anyone want to shoot a sea otter? (3)

2015年3月10日付のThe Guardiansから、"Why would anyone want to shoot a sea otter?"のパート3です。

自らラッコやアザラシを捕り、肉を食べ、その毛皮で衣服やアクセサリーなどを作って売る、あるアラスカ先住民の血をひく男性を追ったノンフィクション第3弾です。

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翌朝、私たちは教会にいた。昨日血まみれだったハンターはダークブルーのドレスシャツに自分でデザインした、格子模様の生地に半分アザラシ半分ラッコ毛皮の『ピーター・ウィリアムス・ベスト』をきちんと着ていた。ウィリアムスはキリスト教のコミュニティを大切にしていたが、自身はユピックのシャーマン(彼によると『良いシャーマン』なのだそうだ。明らかに良いシャーマンと悪いシャーマンがいる。シャーマンとしての技量ではなく、持っている意志や力という意味での良し悪しらしい)の血筋だ。彼は、猟は「スピリチュアルな収穫行為」であると言う。だから出かける前にはいつもハドソン湾茶と呼ばれる灌木いぶし、猟の安全と、獲物を一撃で仕留められるよう祈りながら、甘い香りのする煙を体中にかぶる。彼は教会でこうしたことは教会では黙っている。「俺に話しかけてくる木々と話したり、俺に話しかけてくるサーモンたちについて話したり。そんな場が他にあるからね」


ウィリアムスは様々な世界を結びつけるということに慣れている。それはシャーマンの伝統的な役割だ。彼は二重の意味で排除されてきた。一つは、白人たちの中でアラスカ先住民であるということ。もう一つはトリンギット(シトカの先住民)の中でユピックであるということだ。彼の母の家族はペンシルバニアのドイツ系住民で、宣教師でシトカに移り住み布教し教師をしていた。彼の父はアラスカ西部アキアックの、ユピックの村出身だった。その村は北極圏に近いツンドラの土地で雪解け水でできた湖が無数にあり、シトカから1000マイル(約1,600km)も北西にあった。彼の両親は母親が村で教えていた時に出会った。ユピックは言語的にも文化的にも体つきもほとんどの他のアラスカ先住民と異なるため、森林限界の向こう、北極圏近くでの生活に適応していた。彼らは広義では、シベリア西端からアラスカ、カナダの北部沿岸、グリーンランドにまたがるエスキモー系文化に属している。


生まれてまだ6週間で、ウィリアムスは母親とともにシトカへやってきた。父親はアルコール依存症であったため、アキアックに残っていた。「親父が死んだ時、たしか8歳くらいだったと思う」そうウィリアムスは言った。「酒を飲んで船に乗り、事故で溺れて死んだんだ。親父の兄弟のうち4人はアルコール関係で死んだ。その8年で、親父から電話がかかってきた記憶も、手紙を書いて寄越してきた記憶もない。でも、何か連絡をとってきたけど覚えていないだけかもしれない」


最近までウィリアムスはアキアックへ一度しか行ったことがなかった。今でもあまりユピック語が話せないからだ。ユピック語はアキアックの第一言語で、おそらくアメリカの先住民の言葉では最も強力な言葉だ。「kass'ag(白人)かと思ったよ」父方の祖母にそう言われたことがある。電話口で英語で話したら、祖母はそれがウィリアムスだと気がつかなかった。「同化でなく抹殺だという人もいるよ」ウィリアムスは言う。「たくさんのユピックの文化を、俺はもう一度見つけなければならなかったんだ」


猟を始めてから、ウィリアムスは北米の歴史が毛皮や皮と密接に結びついているということを知った。1600年代から19世紀の終わりまで、アメリカ大陸では何百万頭もの毛皮を持つ動物たちが殺された。先住民の自給として行われていたものが、産業的なスケールでの虐殺に変わってしまったのだ。毛皮を獲る人々や貿易商たちは、先住民の労働力を利用し「植民地への定住と発展における大きな役割」を果たしたと歴史家エリック・ジェイ・ドリンは書いている。ニューヨークの大きな古い邸宅で、ウィリアムスは毛皮貿易で財をなした最初のアメリカ人であるアスターの子孫と会ったことがある。


ヨーロッパにおけるビーバーの毛皮の帽子の流行は北極圏からロッキー山脈にかけての定住と貿易を後押ししたが、アラスカと太平洋北西部の歴史は清後期時代の中国におけるラッコの毛皮への熱狂によって形作られた。その飽くなき市場の欲を満たすため、ロシアはラッコを追いかけるように植民地化を進めた。ラッコのもともとの生息域は広くアラスカ半島の沿岸約34,000マイル(約54,400km)が中心だった。


1804年、シトカはロシア領アメリカの首都になり、毎年18,000枚の毛皮が広東へ送られた。強制労働により多くの人々が死に追いやられた。ロシアによる弾圧の下、先住民の猟師たちは皮張りのカヤックに乗り、骨や貝の矢じりを付けた矢、後には銃を持って出かけた。1911年までにラッコは1,000頭を残すのみとなり、1枚の毛皮はロンドンの毛皮市場で200ポンドにもなった。その年、アメリカ、ロシア、カナダそして日本がオットセイやラッコを保護するため、それらの動物の狩猟を禁止する国際条約を締結したが、もはや後の祭りだった。


1972年、アメリカ議会は海産哺乳類保護法を通過させた。これは、更に保護と規則を加えるものであった一方、アラスカ沿岸に住み毛皮を獲って生計を立てていた先住民の血が4分の1以上の者について例外を作ってしまうことになった。「現在、俺たちはこの価値ある資源、ラッコに対し、理論的な独占権を持っている。ラッコはそれだけ、先住民に痛みと抑圧をもたらしたのだから」とウィリアムスは私に言った。「それが癒しになり、先住民の権利拡大になる可能性を秘めていると思うよ」


今日、世界には約10万頭のラッコが生息しているが、その大半はアラスカに住んでいる。保護活動家が典型的な成功例を誇っている一方で、毛皮商人やファッション業界の人々は、ラッコの存在すら忘れてしまっている。カリフォルニアラッコは「絶滅危惧」とされており、アラスカ南西部のラッコは公的に「絶滅の恐れのある種」とされているが、シトカ周辺のラッコは誰に聞いても健全で、地元住民によれば「健全すぎる」と言う。


あるアラスカ州上院議員は最近、水産業への脅威を理由にラッコに対し懸賞金をかける提案をするまでに至った。ウニや貝などを食べ尽くしてしまうため、水産業者たちにとって害があるだけでなく、ラッコ自身も脅威に追いやっている。ラッコは毎日体重の25%以上を食べるため、餌になる資源をあっという間に食べ尽くしてしまうからだ。「ラッコを獲ってくれ」地元住民の多くがウィリアムスにそう言う。


「ラッコは、ある意味ほとんど見下される動物になってきています」ハンターであり、保護活動家でもあるリチャード・ネルソンはシトカで私にそう言った。「ラッコは自分たちの生息地を荒廃させています。その視点から言うと、ピーター・ウィリアムスは生計を立てようとしているだけではなく、重要な生態学的なサービスを続けているとも言えます」一方でネルソンは、拡大する毛皮市場には「管理規則」が必要になるだろうとも言っている。理想的には、生物学者のコンサルテーションの下、アラスカ先住民によって運営されるといい。「再びラッコを絶滅に追い込むことがないように」

ピーター・ウィリアムス作、ラッコのイヤリング Photograph: Tim Knox
ピーター・ウィリアムス作、ラッコのイヤリング Photograph: Tim Knox

「私たちはみな、他の命を奪って生きているんだ。そうしないで生きていくことはできないんだよ」ネルソンはそう言い足した。ウィリアムスも言っていた「環境と切り離されてしまうと、搾取したり、乱獲したりしてしまう。もう一つの極端で言うと、まったく触れてもいけないというものだけど、それは関係を続けて取った獲物の数を数え、調節していくのではなく、別の意味で環境と切り離されてしまうことになる」


昨年、ウィリアムスのような猟師たち100人ほどが、2,100頭のラッコを収穫した。政府によるタグ付け監視プログラムによると、ここ数年の数字の2倍だ。(ウィリアムスは38頭で「今までで一番少なかった」そうだ)一年を通じて生計を立てている者は少ないが、ラッコやアザラシはより多くの人にとって追加の収入を得られる重要な源になっている。彼らの住む村には、収入を得られる手段がほとんどないため、先住民のリーダーたちは静かに猟や州からの資金による「持続可能な芸術プロジェクト」である皮を使った工芸品作りを推し進めている。猟は静かに行われている。ハンターの多くは、特に他の48州にラッコを愛するファンがいることも知っている。ウィリアムスも、そうしたものに反しているということは分かっていた。


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猟から数日後、具合が悪そうなウィリアムスはやっとフレッシング(皮から肉を取り除く剪打ち工程)の作業にとりかかった。毛皮をなめしに出す前の、最後の工程だ。彼は皮を板にクリップで留め、高圧洗浄機の水で残った筋肉や脂肪を吹き飛ばした。こうすれば毛皮を破いたり穴を開けてしまうことがないからだ。肉の塊が流れ落ち、石をカーマインピンクに染める。かつては80パウンド(約36kg)もあったそのラッコは、今や10分の1ほどになってしまった。ウィリアムスは皮を岩の上に広げた。なめしの工程(乾燥、加水、浸酸、水洗、加脂、回転式乾燥器による乾燥、ブラッシング)に数週間かかり、毛皮となる。そしてウィリアムスが手を加え、人々が身に着けられるものとなる。


トレーラーの中で、ウィリアムスはなめし加工された皮を伸ばしていた。ファッションウイークまで日は十分にあると彼は思ったようだ。作品を作る段階になった。ノンストップで。ウィリアムスは床に座り、布の切れ端に裁縫用のチョークでなぞっていた。ニューヨークでモデルがかぶる、毛皮の縁取りのトラッパーハット(耳当てのついた帽子)の耳当ての部分だ。ウィリアムスが布を裁断し、裁縫職人が縫製を手伝ってくれることもあるが、毛皮部分は彼が自分で縫製する。


いかつい個人主義のため、辺境は厳しく管理され、かなり合理化されている。様々な委員会や評議会などが「分け前をもらい」、「資源を使用する人々」の声に耳を傾けようとしている、とある地元の漁師が言っていた。ラッコ猟は他の動物とは違い、狩猟期間もなければ数量制限もない。そういう意味では「管理され」ていないのだが、法律が曖昧にも関わらず断続的に施行するやり方は、ウィリアムスにかなりの被害妄想を押し付けることになったが、それも理解できる。「作品は、最初から最後まで自分で作らないといけないんだ」と彼は言った。他のアラスカ先住民に販売する場合を除き、毛皮は猟師の手で、伝統的な家内制手工業的な方法で「明らかに加工され」ていなければならない。ウィリアムスの友人であり師でもあるウェイド・"マーティ"・マーティンは、かつて先住民でない人にラッコの毛皮10枚を彼曰くいやいや売ったため、連邦裁判所から2年の執行猶予と1,000ドルの罰金を言い渡された。シトカの先住民のある工芸家は、ラッコ皮のパーカーに「非伝統的な」ジッパーを使い、また帽子に「非伝統的」な金属のスナップボタンを2つ付けたということで召喚された。そうしたものを使うことを権利として認められるまで、裁判で7年もかかった。

現代的なアメリカ式の生活と伝統的なアラスカ文化の狭間で、経済的な圧力による緊張もある。現金が少ないアラスカ市民は自分たちで狩りをしたり釣りをしたりして糊口をしのいでいるが、一方で自給自足や自治、自然との繋がり、家族や友人、隣人たちに広がるギフトエコノミー(貨幣や価値あるものを等価交換するのではなく、自分が持っているものを他人に与えることで成り立つ経済)などの伝統的な文化的理想も存在する。資本主義は「奴隷制度で、刑務所のような制度」だとウィリアムスはかつて私に言った。「俺はアナーキストじゃないよ」別の時に、彼は言ったことがある。「ただのユピックだよ」しかし、彼は資本主義の中心地ニューヨークへの飛行機のチケットを買ったばかりだった。彼は自分の最後の蓄えを、毛皮とファッションに賭けていたのだ。


シトカで過ごす最後の日、私たちはウィリアムスがインスピレーションを得たり、時々デモンストレーションをしたりするという博物館を歩いていた。100年前の、素朴で時代を超越したようなシャーマンの面や曲木の椅子などがあった。グーグルグラスを彷彿とさせるような、不気味なスノーゴーグルや宇宙飛行士にぴったりの巨大なアザラシ皮のスーツもあった。

工芸品フェアに行くと、年配者たちが、そこに来るまでの時間やお金はもちろん、自分の食事代すら払わないという話を聞く

「工芸品フェアに行くと」ウィリアムスは言った。「年配者たちが、そこに来るまでの時間やお金はもちろん、自分の食事代すら払わないという話を聞く」若者たちは生計を立てられないような伝統に貢献することはできないよ、と彼は付け加えた。ニューヨークへ行き、彼はそうしたものを変えたいのだ。彼は展示室の真ん中にあった目も眩むようなトーテムポールを指さした。トーテムポールの彫刻は伝統的に北はシトカ辺りまで広まった。そうした凝った専門的な先住民芸術作品が作られたのは、アラスカ北西部沿岸の漁師たちが漁で豊かだったからだ。一方、はるか北部のウィリアムスの仲間の人々の生活は更に厳しく、芸術はもっと暇な人がやるものだった。「発展させる時間があったんだ」ウィリアムスはトーテムポールの彫刻師たちのことを言った。「発展させるだけの資源があったから」


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パート4(完結)へ続く>>

記事元:
Ross Perlin

Why would anyone want to shoot a sea otter?

the Guardian |  Tuesday 10 March 2015 02.00 EDT Last modified on Tuesday 10 March 2015 09.00 EDT